珍しく?マジメで少し重いテーマです。ポーランド、チェコ、クロアチア、スペイン・・・どこを訪れても、複雑極まりないヨーロッパの歴史の話は、現地の人との会話が少し深くなると、自ずと話題に上がるし、中でも、ドイツに住んでいると、毎日、否が応でも「歴史」を感じてしまう。街の落書きにしてもそうだし、
ベルリンを代表する駅(アレキサンダープラッツ。東京でいう新宿)のホーム一面に貼られた新しいアミューズメント施設の駅ばり広告も、
ベルリンの壁から覗き込む女の子の絵。ちなみに敢えて載せないが、上記の落書きの内容と真逆の内容の落書きも目にしたこともある。
1930年代から第二次世界大戦終戦まで続いたナチス独裁政権は、人類史上最大とも言われる負の遺産を遺し、終戦後の冷戦勃発からの東西ドイツの分断、ベルリンの分断。。そして、必然とも見えるし、奇跡にも見えてしまう、ベルリンの壁の崩壊(当時の映像は理屈抜きに何度見ても胸が熱くなってしまう)。統一後の10年間の経済不安を乗り越え、今のドイツがある。想像しただけで、超激動。特にここドイツの首都ベルリンは、これらの歴史の核となっていた都市。悲惨な歴史の直後に冷戦に翻弄され、ほんの20年前まで、全く異なる政治思想の下、真っ二つに割れていたなんて、ここに住む人たちからは、自由で平和な空気すら漂っているが、
街のあちこちには歴史の痕跡が残っている。それは博物館などだけではなく、冒頭にもあるように、文化や生活面からも感じることができる。
もちろん、30年代のナチス独裁政権の象徴であるユダヤ人迫害≒徹底した純血主義を引き起こした歴史的背景は、ユダヤ人が歴史的に迫害され続けてきた歴史は、もっと前の第一次世界大戦以前にも遡るが、ここ最近、特に集中してインプットしてきた30年代以降のドイツについて思ったこと、インプットしてきた上で、印象に残っていることを書きたい。まずは分断前のナチスドイツ時代のことを2回に分けて。(えぐい内容もあるので、興味ある方だけ下に進んでくださいね)
★何が起こったのか?(ここはあちこちに情報たくさんなのでざっくりと)
・30年代頭、選挙を重ねるごとにナチス党は徐々に議席数を伸ばし、第1党となる。
・(すったもんだあったようだが)大統領令により、ヒトラーが首相になる。
・ヒトラーによるナチス独裁政権スタート。
・最大の負の遺産であるホロコースト。ユダヤ人への迫害が本格化。
・法の改正、ユダヤ人の公共施設や商店、レストランへの立ち入り禁止令
・同時にヨーロッパ中に次々と領土を拡大していき、各地にゲットーと呼ばれるユダヤ人居住区を作り、ユダヤ人たちを、
そこへ強制的に移住させる。
・持ち物、所持金まだ規定され、多くの家財や財産は残され、のちに、純血ドイツ人に再分配される(ユダヤ人は、第一次世界大戦後も貿易や金融業で比較的裕福な人たちが多かった)→これにより多くの国民の生活が改善されたことから、ヒトラーへの求心力はより高まる)
・同時に各地で強制収容所が建設され、ゲットーから強制収容所に送り込まれ、人間の生活からは程遠い、家畜以下の生活を強いられる。中でも絶滅収容所と呼ばれたアウシュビッツでは、ガス室がいくつも作られ、女性や子供、病気の人、障がい者、老人はそのままこのガス室に入れられもう毒ガスで殺された。
・ガス室による殺害、餓死も含めて推定で600万人もの死者を出す(ヨーロッパのユダヤ人の7割)
・ユダヤ人だけでなく、ナチスの定義する「アーリア人」以外のドイツ人や、政権に反対した人たちも送り込まれ亡くなった
・ナチスドイツの敗戦と降伏。ヒトラーはその直前に自殺。
・その後ベルリンは米英仏ソの支配下に置かれる
★アウシュビッツ・ビルケナウを訪れた
6月末、私たち家族は、アウシュビッツ強制収容所を訪れた。ここを訪れる人は年々増えているという。アジア人で初めてアウシュビッツの公式ガイドとなった中谷さんにガイドをお願いすることができた。「日本人にしかできないガイドをしたかった」と信念一つでポーランドに移住して30年弱。まっすぐで強烈な目力、丁寧に事実に忠実に一つ一つを重たくも淡々と説明してくださるその姿だけでも、彼の情熱がひしひしと伝わる。そして、たくさんの本を読んできたしベースの知識もあった中ではあったが実際に現地を訪れてその場の空気や実物を見るとでは全く異なることもわかった。ただただ言葉を失った。
アウシュビッツを象徴する、入り口の門「働けば自由になれる」。
収容されたユダヤ人が作らされたこの入り口の門と皮肉を込めた標語。3つ目のアルファベットの「B」が逆さまになっているのは、これを作ったユダヤ人の反抗からではないかと言われている。ハンガリーから何日も貨物列車(もちろん席はなく、ぎゅうぎゅう詰めで立ったまま)でここにたどり着いた人たちの写真。
真ん中の男の子の顔から絶望と憎しみが見て取れる。
到着してすぐに「選別」が行われる。ナチスに雇われた医者が、労働できる人体かどうかだけを次々と選別した。先述した通り、妊婦、子供、老人、障がい者、同性愛者などは無条件でガス室におくりこまれた。
一日一食のパンと呼べないパンと、水のようなスープしか与えられず、ここに収容された人たちの平均体重は40キロにもなった。私たちが訪れたのは、夏で、汗ばむくらいの陽気だったが、ここ東欧ポーランドの冬は厳しく長い。このベットに6人で寝る。寝返りはもちろんのこと、男八人にもなると仰向けすら難しいように見える。
もちろん、まともに使用することが許されなかった、ハードだけは立派な洗面所。
外観や、トイレ、洗面所など、ハード面が一定のクオリティを担保しているのは、中で行われていることを、ソ連軍や連合軍に見つからないようにするという狙いがあるという。(もちろんこれだけの悲惨な事実が終戦まで世界に漏れなかったはずはない)
”生産(労働)可能”というギリギリのラインを最小コストで保つという、ナチスからすると、極めて合理的に労働力を勝ち得ながら(なので、最初に見合うか見合わないかの選別がある)最終的には、ユダヤ人を絶滅というゴールに向かわせていく。ここが、ガス室跡地。
1945年3月、連合軍の侵攻に伴い、最後はナチスドイツがこのガス室を証拠隠滅のために爆撃して逃亡した。(収容されたユダヤ人は、ガス室で殺されるか、連合軍からまだ遠い、ドイツ北部の収容所に移送されたという。
ヘイトスピーチとホロコースト、ホロコーストとイスラエル、KKKやネオナチの台頭など急速な排他主義の広がりをどう考えるか・・・。賛成してないけど、反対もしてない大多数の人もマジョリティに飲み込まれ、いつしか、「自分たちさえよければOK」と無意識に思ってしまう。人間がなぜここまでの過ちを犯してしまったのかわからない。わからないということは、また同じ過ちを繰り返してしまうかもしれない。ガイドを通じでその危うさを伝えていきたいという中谷さん。過去のこととしてだけではなく、そして、外国で起きた悲惨な出来事としてだけでもなく、日本、アジアや昨今世界中で起こっていること、過去と今を一本の線で繋いでいく中谷さんのガイドは、起きていることを第三者として外から眺めるのではなく、どんなことでも”We”として捉えることが過去を未来に活かしていくことなんだと教えてくれた。
★極限の中で、生きる意味を見出し続けた人たちがいた
「夜と霧」の著者である、ヴィクトリーフランクル。
精神科医であり、心理学者である彼が、収容所生活において極限の中でどう生き抜いたのか?「夜と霧」は、絶望からいくつかの段階を経て、無感情に到るまでのプロセスと、その中でも「生きる意味」を持ち続けることについて体系的に書かれている。東日本大震災の時に、被災地の多くの人たちが、この本を手にしたという。また、彼が解放後、半年後にウィーンの大学で学生たちに収容所での体験とそれを心理学的に解釈した内容で講義をしている。”すべては、その人ががどう言う人間であるかにかかっていることを、私たちは学んだのです。最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです。なんといっても、そうです!ついこのあいだ起こったどんなにおぞましい出来事の中でも、そして強制収容所の体験の中でも、その人がどんな人間であるかがやはり問題でありつづけたのです”。この講義が一冊の本になっているのだけど、「それでも人生にイエスと言う」と言うタイトル(和訳)を僅か半年後につけられること自体、彼の凄まじい心の強さと優しさを表しているのではないかと感じた。
また、世界的に最も知られているのは、アンネの日記で知られるアンネ・フランクだと思う。オランダ、アムステルダムにある、アンネフランクが3年間息を潜めていた隠れ家を訪れた。
希望のつまった一枚一枚の日記を読むと涙が出てくる。そして、その一枚一枚が、この部屋で書かれたとは信じ難い。日の光に当たることはもちろん、プライバシーも失い、食もまともにできず、外部の状況は悪化していく一方の中でそれでも前を向き生きる意味を持ち続けられるその強烈なしなやかさに触れると、アンネが生きていたら、世界でどんな存在になっていただろうと思いを巡らす。1944年、密告により隠れ家はゲシュタポに見つかることになり、アンネ一家は、ポーランドのアウシュビッツに収容されていった。そして、収容所でもアンネは日記こそ描くことさえできなくなったが、常に周りを明るくする存在だったという。儚くも、ソ連軍に解放される3週間前に、チフスにかかり、15歳のアンネは息をひきとった。
唯一生き残ったアンネのお父様がのちに隠れ家に戻り、アンネの日記の存在を知る。
”僕はアンネとは距離も近く、アンネをよくわかっていると思っていました。(日記を読んで)彼女のことを半分も知らなかったということに気づきました。きっと親と子とはそういうものかもしれません”
アンネフランクの家に資料として残されていた、お父様のインタビュー内のこの言葉が、私自身も1人の親として、心に沁みた。
後編に続く。
Ryon